1914-1933「ミカド印」の複写紙を生み出した、創業者の先見の明

創業60周年記念映画での再現シーン。和紙カーボン塗布作業を出演者に実技指導する
米沢ハツエ氏(昭和21年~昭和53年在籍)

昭和4~5年頃の今里工場。現在は駐車場

 筆と墨を扱っていた永清堂時代、創業者芦田重之助は、いち早く複写紙の将来性に着目、その製造に着手した。当時、すでに国産複写紙メーカーが存在し、輸入品も用いられていたが、重之助は品質第一をモットーに自社ブランド「ミカド印」の複写紙を発売。当時は炭酸紙と呼ばれていた和紙カーボン紙の分野で、徐々に販路を拡大していった。

 そして芦田永清堂から複写紙製造の事業を分離し、さらなる発展を期するために1914(大正3)年、ゼネラルの前身である東洋複写紙製造合資会社を大阪市西区靭中通に設立するに至った。その後、重之助は複写紙の品質改良に力を注ぎ、舶来品を駆逐し、全国の銀行や企業で「ミカド印」複写紙を使わない所はないといわれるまでになった。

<和紙カーボン紙の作り方>
 長方形の火鉢の両端に銅板を、真中に直径30cm位の鍋を置き、それぞれの下に加熱用のタドンが置かれていた。鍋にはカーボンブラック(煤)、油、ワックスなどが原料のインクが溶かしてあり、この火鉢の両端に座った女性の作業者が、このインクを銅板の上に置いた和紙に刷毛で1枚ずつ塗っていた。さらに、余分な油を取るために新聞紙にはさんで一晩寝かすが、手塗りのためムラなく仕上げるにはかなりの熟練を要した。
 昭和初期には甲乙丙の3班に分かれ、乙が刷毛塗り、丙が新聞紙にはさむ工程、甲は熟練者のみの班で高級品を塗っていた。当時は1枚いくらの請負制だったので、ていねいに塗る人、枚数で稼げば良いと雑に塗る人など、作業者の性格が反映したという。検品担当の女性は基準が厳しく、恐れられていたというが、これが対外的に品質面での信頼性を得ていた所以でもあった。この方法は原始的に見えるが、七輪を用いていた創業時の方法から改良された手法であり、最終的に和紙カーボン紙の製造が終わる終戦直後まで続けられた。

新聞紙の間に挟み、余分な油を取った後、揃える

創業60周年記念映画の1シーン。今里の工場から唐物町の店へカーボン紙を大八車で運んだ様子を再現

昭和初期の社員

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