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1946-1959 戦後の発展の時代、カーボン紙トップシェアメーカーへ。 |
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| 社業の発展に伴い今里にあった2工場も手狭となり、経営陣の英断によって大阪市城東区野江に新工場を建設した。平成3年に滋賀新工場が稼動するまでゼネラル製品を生み出し続けた。 |
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太平洋戦争が終わり、日本ではあらゆるものが不足し、カーボン紙の材料も例外ではなかった。当時の他のカーボン紙メーカーの多くは、安易に利益のでる原紙の横流しに走ったが、当社は資材の手当てに苦労しながらも、カーボン紙の製造を続けた。このため、ある銀行からは「金儲けの下手な会社」であると、融資を断られたこともあったという。 しばらくして世情が落ち着き他社が本業に戻ろうとした時には、すでに当社の製品が全国を抑えており、カーボン紙でトップのシェアを占めるに至った。またこの時に培った信用が現在にまで繋がっているといえる。営業面では共栄会の発足、生産面では野江工場を開設、いずれも当社の基盤を揺るぎないものとする大きな展開を遂げた時代である。 |
| 野江新工場にて、開所式に先立ち創業者芦田重之助像の除幕式が行われた。 |
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永清堂の店頭に揚げられていた看板。現在は大阪本社にある。
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昭和30〜35年頃のカーボン紙塗工機
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昭和30年頃のカーボン紙巻き替え・検品
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